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黒田官兵衛と言っても、イメージがわかない方は、秀吉に仕えていた黒田孝高、黒田如水の名前を聞けば、思い出す方も多いと思います。
黒田官兵衛という人物、実は全戦全勝で、なんと負け知らずの人だったのです。 まさに戦いの天才であり、頭もよかったことから、文武両道の知将とも呼ばれていました。 さらに、信仰の厚いキリシタンでもあったそうです。 地元、姫路の観光材料として、黒田官兵衛は大きな存在であり、黒田官兵衛が偉大な軍師であればあるほど、観光スポットに多くの人が訪れてくれるきっかけにもなります。 ですから、このようなほめ言葉は、姫路の方にとっても嬉しいでしょうが、一方、黒田官兵衛は、かなりの策略家だったと、けなされていることもあります。 黒田官兵衛という人物は、本当はどのような人だったのか、ここでひとつエピソードをご紹介したいと思います。 1582年のことですが、織田信長の命令を受けた豊臣秀吉は、中国の毛利を討つために、備中、高松城に向かいました。 備中、高松城は、今で言うと岡山県です。 前代未聞の戦略と言われている水攻めによって、高松城は落城寸前でした。 そんな時、秀吉に知らされたことは、本能寺で明智光秀が裏切ったことであり、信長死亡という大事件でした。 呆然とする秀吉の耳元で、黒田官兵衛が言った言葉は「これで天下が見えてきましたな」。 秀吉は黒田官兵衛の言葉でわれに返り、毛利氏を討つために攻めていたのですが、一転、和議を結びました。 そして、裏切り者の光秀を倒すため京へ急いで引き返しました。 PR |
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